考える紫

「考えること」を大切にしている、集団生活が苦手な若造のブログです。

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「難しい」という逃げ道を選んでいませんか?

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私は人と話していると、よく「難しい」と相手に言われる。

「難しい話ですね~」

「そんなに難しく考えなくても・・・」

こんなことをよく言われる。

しかし、私は難しい話なんて一切していない。「よく考えた話」をしているだけである。

 

私は難しい話ができる程頭が良いわけではない。

論理的思考が苦手なので、矛盾点もたくさんあるはずだ。

 

少し話は逸れるが、私はここ最近「論理的思考」に対して懐疑的だ。

以前は論理的思考力を身につけたいと思い、論理思考のハウツー本を手にしてみたこともあるのだが、そのハウツー本に書かれている通りに思考することが、本当の正しさにつながると確信できない。その思考法は、他者が異論を唱えることができない程の絶対的な正しさを保証してくれるのだろうか。

いや、絶対的な正しさがいつもあるわけではない。いろいろな主張が唱えられるが、その中でも「否定しにくい」主張を考える。それが論理思考だ。ということなのだろうか?*1

どうやら私が「論理的思考」そのものを理解していないようだが、それでもやはり、論理的思考法のハウツー本は眉唾物であると思う。

私が購入したハウツー本の中には「なぜ?と問うことを大切にする」というようなことが書かれていたが、そんなのはどんな風に考えるときだって必要なのではないか。確かに、論理的思考のハウツー本だからといって、上位カテゴリーの「思考」の方法について語ってはいけないという道理はない。しかし、いかにも「なぜ?という問い」が「論理的思考」の方法であるかのような書き方をしているように思われる。それは私の歪んだ見方なのだろうか。

・・・もう少し冷静になって、もう一度あのハウツー本を読んでみることにしよう。

 

さて、話を本筋に戻そう。

上記の通り、私は論理的思考が苦手なので、「論理的に正しい」考えはなかなか導き出せない。

自分なりに物事を多角的に見て、複数の考え方を想定し、よく比較検討した上でその中から一つを選択し、それを自分の考えとして、それに対する自問自答を繰り返し、研磨していっている。

複数の考え方を比較検討しなければならないので、当然複数の考え方に遭遇する。

その中から一つを選択するからといって、必ずしも他の考え方を「否定」するのではない。「採用」しないだけである。

自分以外の誰かの中で、私に採用されなかった考え方が正しかったとしても、自分の考え方を押し付けることはしない。

「他人は他人」「自分は自分」なのである。

私は、自己と他者を混同する人が好きではない。

「この映画、超おもしろいから!絶対ハマるから観て!」

なんて、私の前で言っても意味は無い。

その人にとって、その映画のどのような点がどのようにおもしろかったのかを聞き、それが自分にとっても面白そうなものだと思われたら、観るという選択肢が生まれる。その程度だ。

他者を理解するには、「自己と他者」の違いを認識しなければならない。

自己と他者が「同じ」ならば、他者を理解するために耳を傾ける必要はない。自分が考えていることを他者も考えているはずだからだ。

自己と他者が「異なる」からこそ、他者に耳を傾ける必要が出てくる。この意識がなければ、他者を理解しようとする努力は怠慢の中に隠れていってしまうだろう。

自己と他者を混同する人は、他者理解を疎かにしている。

 

さて、「難しい」という言葉について。

これは、他者理解を放棄した言葉だ。

この「難しい」という言葉には、「そこまで考える必要ないでしょw」という無思考人間なりの無思考的な価値判断が含まれている。

私は難しいことなど言っていない。

何の専門用語も使っていない。どの分野の人間も使う理解可能な言葉しか使っていない。

「難しいかどうか」を「考えない」から、無思考的に「難しい」と思うのだ。

彼らはそこがわかっていない。

そして、その「難しい」という言葉が思考停止を招く。そしてさらに「無思考」を究めていく・・・

彼らは、「難しい」という思考停止印の旗を掲げ、他者の前から逃げていく。

逃げた先に何があるのか?遁世するしかないのではないか・・・

私は多様性を認めることを自らに課しているため、彼らの「無思考」というポリシーも認めなければいけないのでは?という人がいるかもしれない。

しかし、私は「無思考」の正当性を未だ見つけられないし、無思考人間は「無思考」の正当性すら考えないので、私に無思考の正当性を突きつけることができない。

正しくないことまで認めるつもりはない。

りんごを見て「みかん」という人を、説明・了解なしに受け入れることができるか?

 


ご一読ありがとうございます。

*1:論理思考に対する懐疑心は、「独我論の否定」によってさらに強められた。いずれこれについても触れたい。