考える紫

「考えること」を大切にしている、集団生活が苦手な若造のブログです。

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あの人が何をしたいのか「理解できない」

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文字通りの意味で伝えたくても一般的に否定的なニュアンスで受け取られる言葉が多いように思う。そう感じるのは、私がちょっと特殊だからかもしれない。

 

私は物事を多角的に見るように心がけているので、あるものを否定的に見たら肯定的な見方や中立的な見方を探すし、中立的に見たら他の中立的な見方・肯定的な見方・否定的な見方を探すし、肯定的に見たら否定的な見方や中立的な見方を探す。

そうすると、一般的に否定的なニュアンスで受け取られる言葉で語られる物事も、中立的に見たり肯定的に見ることができる。そしてその物事について語りたいときに中立的な見方あるいは肯定的な見方を示すために否定的なニュアンスを取り除こうとし、骨を折る。その苦労が印象に残り、「私に苦労をかける言葉」が多いように感じられるのだろう。

否定的なニュアンスを除くためには、「ニュートラルな意味で言ってるねんで」などと言わなければならない。もしかしたら相手は「こいつ何言ってんねん」と思っているかもしれない。私は誤解されることが多い。私の語彙の少なさにも問題はあるだろうが。

肯定的なニュアンスはあえて取り除かなくても問題にならないことが多い。それは、私が「いい人」でいたいからだろう。「いっつも否定的なこと言っとるな、こいつ」なんて思われたくない。

 

「理解できない」という言葉も、否定的に受け取られることが多いと思う。「理解できない」は、文字通りの意味よりも「許容できない」とか「受け付けられない」という意味で使われることが多いのではないか。

私が「理解できない」という場合は、本当に「理解」できないのだ。その「理解できないもの」を責めるつもりはない。いつか理解できるかもしれないし、理解する必要がないかもしれない。私が理解できなくても、理解できる人は「それ」とともに生きればいい。それはその人の自由だ。私は「それ」に関わらないようにするかもしれないが、それも自由だろう。自分は自分、他人は他人だ。

 

だから、これからある「理解できない人」について書こうと思うが、それは決して批難ではなく、疑問の備忘録である。

 

私がここ最近理解できなくて扱いに困っている人は、しょうもないことばかり聞いてくるし、日本語を正しく使おうという意識がさらさら無いし、こちらが指摘しても同じ間違いを繰り返す。

なぜしょうもないことばかり聞いてくるのか?

なぜ日本語を正しく使おうと思わないのか?

なぜ間違いを正そうとしないのか?

これらを理解できない今の私は、以下(斜字部分)のように考えてしまう。

しょうもないことや間違いを否定し、正しい言葉遣いを求める私の価値観が正しいとは限らない。違う価値観の存在は想定できる。

しかしそのような価値観は現時点の私の価値観とは合わないし、もし私の価値観と同じ方向性の価値観を持った上で、問題意識を持ちつつ前述の「困ったこと」を改善する努力をしていないのであれば、理想主義的*1な私の考え方とは合わない。どちらにしろ、今の私とは合わないのだ。

 

確かに、これだけでは「理解できない」という言葉は否定的である。

しかし、しょうもないことばかり聞いたり、言葉遣いに頓着しなかったり、間違いを正さなかったりすることの理由を知り、それに正当性を見出すことができれば、「私とは合わない」とは異なる結論を導くことができるかもしれない。

「理解できない」という現状を告白することで、説明を求め、理解に向かっている。肯定しようという気持ちがあるのだ。そういう意味では肯定的ではないか。

 

否定的な面も肯定的な面もあるが、「理解できない」という言葉を発する最大の理由は、純粋に疑問に思うからだ。この疑問は「純粋」であり、否定でも肯定でもなくニュートラルである。

 

ご一読ありがとうございます。

*1:これについては、また後日記事を書きたい。