考える紫

「考えること」を大切にしている、集団生活が苦手な若造のブログです。

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自分で言うのも何ですが、私は謙虚です。

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どうも私は誤解されやすいように思う。

威圧的で衒学的で「自分が世界で一番正しい」と思っている人間だ、と決めつけられているような気がしてならない。

しかし、私は寧ろ「謙虚」であると思う。「謙虚さ」においては、平均レベルより高いはずだ。

 

なぜ「自分は謙虚だ」と思うのか。

それは、自己と他者の違いを意識し、その違いを認めるように努めているからだ。

前にも述べたが、私は「自分」というものを他人に押し付けない。

「他人は他人」「自分は自分」という考えだからだ。

この考えは、他者を尊重するためのものである。

「自分の中に自分なりの価値基準があるように、他人の中にもその人なりの価値基準があるはずだ」という簡単な想像をすれば、自分の価値基準で他者の価値基準を否定することが余計なお世話であるということがわかるだろう。

それゆえ、私は他者の考えを「否定」はしない。それも多様なもののうちの一つとして存在を認める。明らかに犯罪につながる場合など、あまりにも大きな不都合がある場合は、否定せざるを得ないということもあるだろうが。

憲法や法律を疑うこと自体は否定しないが、それらを変える努力あるいは自分が許容できるルールを採用している社会の選択・移住をしないのならば、それらを犯す資格はない。日本で生きなければならないという「宿命」はないだろう。

「それでも日本で生きたいんだ!」というならば、「憲法や法律に対する不満」よりも「日本以外の社会で生活することへの不満」が勝ったということだろう。自分で「より受け入れやすい不満」を「選択」したのだ。自分の選択には責任を持って欲しい(「ただ従う」ということが責任の取り方ではない)。

他者にしても法律にしても、「なんでも自分に合ったものに変える」ということはできない。それができると思っている人は、自己と他者を混同しているか、他者を排除しつつ他者に甘えている。後者は「わがまま」である。

私のこの考えは、「自分で責任を負う」ということを自分にも他者にも求めている。しかし同時に、自分にも他者にも「選択の自由」を与えている。自由な選択が可能な中で自分の意思で選択したものに責任を持つことは道理ではないか。

押し付けられたものに責任が持てないのは仕方ない部分があるが、自分の意思決定に責任が持てないのは「無責任」ではないか。

 

 自己と他者の違いを意識し、その違いを認める。 それは多様性を認めるということであり、自分も他人も同じように「多様なものの中の一つに過ぎない」と理解することである。

自分と他人のどちらかが客観的に優れているのではない。

 

他者の意見も自分の意見と同等に扱い、他者にも選択の自由を与える。これはかなり「謙虚」なのではないか。

少なくとも、「この服かわいいでしょ!」とか「君の考え方は間違ってるよ」とか言う人よりは謙虚だと思っている。

また、これは実感としての話に留まるのだが、「自分の考えを理解してもらえれば、相手の意見が理解できなくてもいい」と考えている人が多いように思う。それはあまりに不公平ではないか。「自分の意見は理解する価値があるが、相手の意見は理解する価値がない」という決めつけが見える。相手の意見を理解していないのにその価値を判断することができるのか?おそらく、「自分の考えが正しい」という傲慢な思い込みが、無思考的に相手の意見の価値を決めてしまうのだろう。それは「謙虚」ではない。そういう人が私の実感通りに多いのなら、人々の「謙虚さのレベル」は低いということになる。そういう方向から考えても、私は「自分は謙虚である」と思う。

 

確かに現時点では自分の「この」考え方が、自分にとっては正しいものだと考えている。しかし、他の考え方を新たに知ったり、再考したりする中で、考え方の「軌道修正」が行われていくと考えているし、そうしなければいけないと「現時点では」考えている。

したがって、あらゆる自分の考えは「修正可能なもの」つまり「絶対的な正しさが保証されていないもの」だと考えている。だから、「自分が世界で一番正しい」なんて思っていない。常に自分の「正しくなさ」を探しているのだ。

 

私が 「威圧的で衒学的で『自分が世界で一番正しい』と思っている人間だ 」と思われるのは、話し方に原因があるのかもしれない。また、こんな風に思われているという考えは、ただの被害妄想かもしれない。

しかし、私が本当に大事にしているものがわかってもらえれば、 「威圧的で衒学的で『自分が世界で一番正しい』と思っている人間 」 と私は結びつかないのではないかと思う。被害妄想であったとしても、私が本当に大事にしているものを理解してもらうことは有益だろう(「共感」「賛成」は必須ではない)。

 

ご一読ありがとうございます。